真のレジェンド!現代サーフィンの父、「デューク・カハナモク」


皆さんはデューク・カハナモクをご存知でしょうか。

彼は近代サーフィンの父であり、数々の偉業を達成してきたハワイの英雄です。

ハワイのワイキキビーチにある彼の立像をご存知の方も多いと思います。

サーファーなら知っておきたい彼の生い立ちや、生涯についてまとめました。

この記事のポイント最後まで読むと、デューク・カハナモクの偉業や一生が分かります!

生い立ち

1890年8月24日 今から120年以上前のハワイのオアフ島、ワイキキのダウンタウンで誕生します。

父のデューク・ハラプと母ジュリア・パオアの純血のハワイアンの間に生まれ、古代ハワイのカメハメハ大王の血統を受け継いでいます。カメハメハ大王はハワイの民衆を初めて統治した歴史的な偉人です。

デュークの名前の由来は、彼の父が生まれた時にハワイを訪れていたエディンバラ公爵の公爵(デューク)という称号が父の名前になり、それが息子のデューク・カハナモクにそのまま受け継がれたそうです。

父の職業は警察官でカハナモク家は6人の兄弟がいました。

デュークの一生

1893年 カハナモク家は家族でワイキキのパオア・オハナ・コンパウンドへ移り住みます。

父親にはこの頃からデュークが泳げるようになるためにカヌーから落とされて泳ぐ練習をさせられていました。

母親には「水を恐れずに、自分の可能な限り遠くまで泳いで行ってきなさい。」と言い聞かせられて言い聞かせられていたそうで、この英才教育のおかげで彼は幼い頃から水と親しみ、3歳の頃には泳ぐことができたそうです。

1904年〜1910年 少年時代は男子校として設立された私立学校のカメハメハ・スクールに通います。

ちなみにこの学校は1965年から男女共学になり、ハワイアンの血が入っていないと入学資格すらない名門校です。

1908年 彼は高校を中退して仲間たちとワイキキビーチを1日うろつき、様々な雑用をして日銭を稼ぐ「ビーチボーイ」となります。この時の仲間2人とともにHui・naluという今でも活動しているカヌークラブを設立します。

1911年 ホノルルで行われたハワイ初の水泳大会に初出場し、自由形部門において、3つの世界新記録を樹立します。

1912年 デュークが21歳の時ストックホルムオリンピックでハワイ代表で出場、競泳100m自由形で世界記録を4,6秒も縮めて世界新記録を樹立し、ハワイ初の金メダルを獲得します。800mリレーでも銀メダルを獲得します。これから17年間もの間、彼の記録を破れるものはいませんでした。

1912年 アメリカの大西洋側でサーフィンのデモンストレーションを行いサーフィンの普及に努めるようになります。彼は訪れる国でチャンスがあればサーフィンの楽しさや素晴らしさを伝えて、このスポーツの普及に努めました。

1914年〜1915年 オーストラリアで開催されたオーストラリアン・ナショナル・スイミングチャンピオンシップで優勝します。

この時もオーストラリアのシドニーでサーフィンのデモンストレーションとエキシビションを行い、これによりオーストラリアではサーフィンが国民的スポーツとして普及されるようになっていきます。

1915年〜1930年代初期までカリフォルニアでサーフィンの普及に努めました。

現代サーフィンの礎を築いていきました。

1917年 ワイキキビーチにて10mの高さもある波をおよそ2km乗り継いだという記録が残っています。

当時の彼のサーフボードは木製でフィンがなく、長さが5mで重さが50kg以上ととても重いパパヌアと言われるサーフボードに乗っていました。もちろんリーシュコードも当時はありません。

1920年 オリンピック・アントワープ大会にて100m自由形に出場し銀メダルを獲得します。

この年にサーフィンをオリンピックの正式種目にするための活動を行ったそうです。

1922年〜1930年 デュークはロサンゼルスに移り、ハリウッド俳優になります。

この間にデュークは30本の映画に出演します。

映画に出演することによってデュークは世界中の人々に認知されていき、サーフィンもますます世界中で普及されていきます。

1924年 オリンピック・パリ大会で100m自由形に出場し銀メダルを獲得します。

この時に金メダルを獲得したのは後にハリウッドの大スターになるジョニー・ワイズミュラーで通算5個の金メダルを獲得していてスポーツ記者によって最も偉大なスイマーに選ばれたこともある人物なのですがデュークの水泳の教え子として、水泳のコーチングを受けていました。

1925年 カリフォルニアのニューポートビーチにて難破船から8人の釣り人をサーフボードに乗って救出します。

1932年 デュークは最後のオリンピックのロサンゼルス大会にて銅メダルを獲得します。

20年の競技年数は当時、世界最長でした。

引退後も彼はサーフボードの開発やサーフィンの普及に尽力します。

1940年8月2日 妻であるナディーン・アレクサンダーと結婚。

ナディーンはハリウッド映画雑誌に乗っていたデュークに一目惚れし、ハワイを訪れた時にデュークと出会い意気投合します。

デュークは妻をこよなく愛しており、セーリングボートやパワーボートなどにナディーンと名付け、ナディーン・カハナモクというハイビスカスもあります。

1959年 ハワイがアメリカの50番目の州に昇格するタイミングでアロハ大使に任命されます。

1964年 東京オリンピックにスペシャルゲストとして招待されます。

1965年 デュークのサーフチームが発足し、ハンティントンビーチの大会に参加します。

この年にデュークカハナモク・インビテーション・サーフィンクラシックという大会がオアフ島ノースショアで開催され全米でその大会の様子がテレビで放映されます。

1968年1月22日、ホノルルにて心臓発作で亡くなります。享年77歳でした。

伝統的な葬儀が行われ、彼の死を悼む人々でビーチは埋まりました。デュークの遺灰は海にまかれました。

1969年 ハンティントンビーチにデュークの胸像が建立されます。

1990年 彼の100回目の誕生日を記念してワイキキビーチにデュークのブロンズ像が作られます。

1994年 シドニーのフレッシウォータービーチにデュークの銅像が立てられます。

2002年 デュークの記念切手が発行されます。


デュークが残した言葉

いいかい、波は永遠に続くのだから、じっくり待って行きたい奴には行かせてやって、次の波に乗ればいいのさ。

デュークは寛容な心の持ち主で優しい人物なのが伝わってきますね。

ハワイはアロハがキーワードな場所だ。どんな人にもアロハな心で接し、友情が調和した場所だと世界の人に伝えよう。

誰よりもハワイを愛し、世界中の人にハワイの魅力を伝えた方です。

最高のサーファーとは最も楽しんでいる人です。

サーフィンは上手い、下手は関係なくどれだけ楽しめるかが大事ですね。

板に乗るんじゃない、波に乗るんだ。

サーフィンの本質をしっかり理解しているからこそ、サーフィンの父と呼ばれるようになったのですね。

関連動画

 

21歳でサーフィン世界王者になった主人公が100年の時をタイムスリップし、デュークと出会ってサーフィンの本質や人生の教訓などを学ぶ映画です。

きっと人生やサーフィンで大事なことが学べる映画でしょう。

 

 

デュークのサーフボードがどのような感じだったかを見ることができます。

まとめ

デュークは寛容で物静かな性格で、多くの人から尊敬されていたそうです。

水泳でも偉業を達成して引退してからもサーフィンをスポーツとして普及することに生涯を費やしていて本当に偉大な方だったと思います。

現代のサーフィンのルーツにはデュークの存在が大きく、歴史的にも偉人であると言えます。

様々な業績を残したデュークは愛妻家でもあったことからとても心が優しく学ぶべきところがたくさんあると思います。

デュークはサーフィンをオリンピックの正式種目にしようと活動もしていたそうで、彼の夢でもありました。

ついにサーフィンが東京オリンピックで正式種目になったのでデュークも空から選手たちを応援してレベルの高さにきっと驚くのではないでしょうか。

優しい心の持ち主であったデュークはこれからもハワイの人々やサーファーの中で語り継がれていく真の英雄でもあり、レジェンドです。

最後まで記事を読んで頂きましてありがとうございました。

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